今朝の私の出勤はまさしくこのタイトルを感じたものでした。
厳密に言うと、Drugは私の中ではMeditation瞑想ですが。
なぜDrugが瞑想かというと、起こす効果がとても似ていると思うから。
一つだけ違う点があり、それは中毒性がないところ。
瞑想に中毒性はないと思います。
もちろん、瞑想に夢中になったり、瞑想がないと生きていけない、と感じてしまうことはあると思いますが、それはしている瞑想の意味が瞑想ではなくなっていると思います。
なので、瞑想をしているが、瞑想ではないのかもしれません。
中毒は心の傷を深くしていくものですが、瞑想はその反対の効果があります。
中毒性を瞑想に感じていたら、それはもう瞑想ではないのかもしれません。
ドラッグはこの中毒性という点で瞑想と大きく違うのですが、感覚や経験をはっきりしたものにしたり、痛みや苦しみが軽減される感じがする点で、効果は似ているのではないかと思い、私にとってのドラッグは瞑想としました。
いいセックスをし、ドラッグ(瞑想)をし、ロックンロールな生活。
私だな、と感じます。
毎週土曜日は午前中は仕事です。
通勤で15分ほど駅からクリニックまで歩くのですが、その道のり、私はiPhoneでレッチリを聴きながら、のりのりで通勤。
あー、私って本当にレッドホットチリペッパーズが好きなんだなぁ、と感じながら、半分踊りながら、そして歌いながらの通勤道。
自分らしくいることにいつもチャレンジしている私なのかな、と感じるのですが、私はどこかでやはり日本人としての体裁だったり、イメージを気にするところがありつつ、そのイメージを壊したくてしょうがないという不思議な反逆精神も強く持っています。
それはまさしく自分らしくいることへのチャレンジで、葛藤しているのだな、と思いました。
私の仕事は臨床心理学者としてセラピーをする心理セラピスト。一見お堅い仕事風です。
職場ではドクターと呼ばれ、患者に電話をするときにも、Dr.Kubotaですが、と切り出す。
どう考えてもレッチリを聴きながら、のりのりで踊りながら歌いながら通勤する人のイメージとは離れているのかな、と思ったりもします。
この思い込みもどこか私が今まで刷り込まれ、信じてしまっているもの。
信じているからか、私はお堅いイメージの人でいないといけないのかな、と感じたり、反逆精神で、まったく違うことをしてしまったり、ずっとどちらかを選ばないといけないかのように過ごしてきた気がします。
まるで、交じり合ってはいけないように。それらがまるで矛盾していて、矛盾がある人間は問題があるかのように思っていたところがある気がします。
でも今朝は、こういうのりのりの先生が私だなーと思って、とても楽になった気がしました。
私は、レッチリが好きで、ロックンロールが大好きで、のりのりな心理学者の先生。
これでいいのだな、と。
セックスも好きだし、健康的にとてもよいセックスをしているし、瞑想も毎日欠かさずしている。しなければいけないことからちょっと逃げがちな時もあるし、どうしようもない不安や怒りに襲われるときもある、そんな人。
自分自身のために行っているセラピーや、自分が行うセラピーで患者と共に成長し、いろいろなことに気づいている人。
瞑想のクラスを教えたり、マインドフルネスについて講演会をする人だったり、料理がとても大好きな人。お酒をあまり飲まなくなった人。
書き出せばきりがない。それら全部が社会的なイメージにはまらなくていいんだな、と感じた今朝。
私は私のままでいて、それが私。
そして、それらがすべてなくなって、私の名前さえも奪われたとしても、私は私として存在する。
私はその私を守ろうと普段はとても必死に生きている。
でも、その守ろうということをやめてみると、痛いと思っていたものが痛く感じなくなることも知っている私。
長い道のりをきて、まだまだこれから道は続く。
今の自分がただ、今の自分で、それに満足している。
昨日患者が言っていたことを思い出す。
半分水が入ったコップをどう表現するか。
「half empty」
と呼ぶのか、
「half full」
と呼ぶのか。
Half Fullな気分の私です。
諸行無常
色即是空、空即是色
この心を日々の瞑想と、セラピーに助けられ理解しつつあります。
最後にトピックを書き足しすぎてしまいました。
これらについてはまた今度。
こういうことを考えるそんな今日で、そんな今日の今の私はただ、私を感じて、ガードが下りている状態です。そういう自分についてと、ぐちゃぐちゃにいろいろな側面があるが、それらが全て私で、それでいいんだな、と感じた事を書きたかった今日のブログポストでした。
この後の瞑想グループが楽しみです。
仕事に戻ります。
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