「怒りはラグジュアリー」
そもそも、この会話が始まったのは、確か、私が患者さんの話をしていたところからだったと思います。
全般的に、私が今診ている患者さんは保険があり、私のボスに当たる精神科の先生に診てもらっている人で、その先生にサイコセラピーを勧められてセラピーを始めた人がほとんどです。
その中の多くの人が、何かとても辛いことがあり、クライシスなので、藁をもすがりたい想いでセラピーにやってきます。
皆さんの願いとしては、セラピーも薬を摂るのと同じように即効性を求めているところがあります。
バンドエイドのような感じです。
傷ができたので、絆創膏を貼って応急処置して、気が付いたら痛みがなくなり、傷も癒えているというのが願い。
それはスピリチュアル系のものや宗教的なものに何かを求めて、儀式やなにかをしてもらうことで安心するのと同じことのように思えます。
もちろん、辛いことからは逃れたいのが人間の普通の反応。
バンドエイドのように、薬のように、1回、もしくは数回でどうにかなってくれると嬉しいですし、そう信じたいもの。
そして比較的簡単に痛みを取り除くことができるなら、そうするためには何でもしたい、と思うのも普通の心情だと思います。
人間の心の働きとしても、まずの応急処置で、傷が癒えると信じて痛みを取り除く作業をまずはします。それが忘れてしまうことであったり、気をそらすことであったり、なにかを責めたり、何かの所為にすることであったりします。
とにかく、痛みや辛さへの対処をする。
至って自然なこと。
ただ、これをし続けていては、苦しみ続けるだけなんです。
本当の痛みの根源はちゃんと向き合うことができていない。
そして、この向き合うという作業は思っている以上に根気、時間、とやる気が必要になります。
どうにかするぞという自分の決意と意思がないと本気で向き合えません。
それはとても時間もかかることでもあります。
セラピーはまさしくその作業を手助けするものだと思っています。
安心感を得るところまでがセラピーではなく、そこからが始まりで、じっくり自分という人間に付き合っていく作業がセラピーで助けられます。
この、やる気・意思、根気、時間をかける勇気、そしてそうし続ける訓練・プラクティスが人間一番大事になってきます。
「怒りはラグジュアリー」
とは、この向き合う作業から逃れ、怒ることで根本にあるコアな問題を見つめないいい理由にしてしまう事。
そういう意味で怒るということはラグジュアリーなんです。
怒りとは、一番辛いところ、痛いところを感じない為にあるものという意味でラグジュアリー。思いっきり怒って、それに飲まれ、流されすることで、コアにある自分の問題は棚に上げてしまう。
だからといって、怒ってはいけないわけではないです。怒るのも自然な感情の一つ。
そして、そのコアな問題へと導いてくれる一番大事な感情である気もします。
そうは言っても本当に心の奥底にある、あり続ける問題(苦しみ、痛み、悲しみ)に面と向かい続けるのは大変なことです。容易なことではないので、怒りに飲まれてしまう、何か他のものでどうにかしてしまうということをしがちになるのもとても自然で当たり前のこと。
だからこそ、人間って面白く、知恵のある生き物なんだなと思います。
毎日、毎秒、進化・進歩・学習し続けていて、知恵をつけていっているのが人間の特徴なのだな、と。
知恵と成長はしたくないと放棄しても人間はし続けているものなので、それを更に充実させていく事が幸せ感になるのではないかとも思います。
そうするには、毎日の訓練、毎日自分の怒りや、感情や何かの変化に気が付くこと、向き合うこと、そしてその為に瞑想やセラピーを受けること、師につくということなどをしていき、知恵と成長が促されていくと思います。
更に大事な事は:
知恵をつけるぞ、学ぶぞ、学習しなければ、という思いが悪いのではないですが、そこに固執してしまわないこと。
ただただ、自分の変化、自分の感情、自分の考えなどを評価せず見つめること。
評価したら、評価したことを知る。ここにマインドフルネスの大切さと意味があると思います。
日々の努力と日々の気づきで*苦しみへの関わり方が変わり、幸せ感を増やしていくことになるのだな、と最近強く思っています。
怒りをある意味大切に。
最後に、もう一つ、怒りは二番目にくる感情で、必ず怒りの奥にはもう一つの感情、『悲しみ』があります。
悲しい、寂しい、そして恐れをキーワードに自分を探るといろいろなものが見えてきますよ。
*「苦しみへの関わり方」と書いたのは、苦しみを与えているものは消えないということを強調したくてです。
いつも言う、1ある痛みを10にも100にもしている自分の心に気が付いて、1の痛みのままで過ごすということです。
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