結局、この心の均衡を持つこと、感じること、保つことなんだな、と考え、感じる今日この頃です。
怒りだったり、人への不満感であったりとか、どうにもできない出来事やそれに伴う感情があります。
それらは消えないもの。
心が勝手に大きくしたりはしてしまいがちですが、あるもの以下にすることや消えてなくならせてしまうということはできません。
でも、それらの感情や出来事に振り回されない自分づくりはできます。
そしてそれは、起こった感情(怒りでも、喜びでも、苛立ちでもなんでも)をコントロールするということでもないんです。
感情の豊かさは素晴らしいこと。
どんな感情も出来事も全てのそのままを見つめ、認め、受け入れる。
それが嫌な気分をさらに巻き起こすものだとすれば、「嫌な気分をさらに巻き起こす感情・出来事だな」と認識する。
ただそれだけ。
「ただそれだけ」と言われると人間とても不安になるみたいです。
その不安も含めて感じてみる、検証してみる。
どういうことが起これば不安でなくなるのか、何がそんなに不安なのか、など。
「こうしてみなさい」と言われ、そしたらこうなります、がないと人はそうすることの良さに気が付くことがなく、試してみようという意欲も起こらず、なにもしないで、「苦しい苦しい」とだけ言い続ける気がします。
Unknownなことへの不安はとてもよくわかる。
でも、やってみないとわからない、理解できないことばかり。
「こんなことしたところで、いろいろな感情を知って、見つめただけで何になるんだ。なにも楽にならないし、ひどくなる一方。きっともっといい、楽になる方法があるはず」
とみんな思うのが普通だとは思いますが、そこで「勇気」を持って「やってみる」。
そこからの気づきは本物だし、自分のためだけにあるものです。
体の底から、心の底から感じて理解して、納得するだけで、驚く変化、奇跡が起こり始める。
でも、奇跡を起こすためにするのではなく、あくまでも、ただ、知るということをし続けるだけ。
瞬間をちゃんと味わう癖をつける。
そして、それから、心の均衡を感じ始める。
何が起こっても、どこか自分の中の深いところで、どんと落ち着いて、地に足がついて、揺るがされない何かを感じる。
何が起こってもそこに帰っていくような。
耐震性の優れた建物のように、打たれてもしなやかにもとに戻る。崩れ落ちてしまわない。
そんな自分を作るには、しっかりした土台。しなやかな心。それらが必要です。
「心の均衡」は、しなやかさとしっかりした土台にある。
私も日々精進しながらEquanimityをもち続けれるように生きています。
そして、それを共有して、自分を知るお手伝いをするのが私の仕事。
さて、勉強するか。
2 件のコメント:
こんにちは。以前コメントしたコウジです。絵里さん、お元気ですか。
今回のブログを拝読して、Kristin Neffの本にあった公式を思い出しました。
Suffering = Pain × Resistance
ResistanceをEquanimityに変えることでsufferingが消えていくという。ヴィパッサナー瞑想で取り組んでいることそのものだと思いました。ゴエンカ氏の言われる"Keep observing all sensations objectively"とはまさにEquanimityのことですね。
コメントありがとうございます。
Equanimityって難しいですよね。
客観的に観察し続けるということがEquanimityへの道ではないか、と私は思っています。
Equanimityというのは自分の中の仏心に気が付き、そこに帰ることのような。。。(仏心は私にとっては人間の美しさ、神聖さ、エネルギーの源だと思っています。)
ビパッサナーを日本で受けるときも同じだと思っているのですが、私がビパッサナーを受けた時、2日に1度ほど先生に呼ばれどうですか、と聞かれます。
その時に聞かれるのがこれでした。
Equanimityはどうですか?と。
その時に私が理解していたのは、執着心に振り回されない心かな、ということでした。
ビパッサナーをしていると足が痛くなったり、何かの不安に襲われたり、嫌なことを考えて、辛くなったり、とにかく何かが辛くなったり、また逆に、妙な高揚感を感じて、悟ったような気分になったり、心地が良くなって、それを味わいたい、と思って瞑想し始めたり、といろいろな感覚が起こってきます。
その感覚をしっかり感じ、観察しながら、それらに執着しない根底に強く流れる自分自身の深い部分の安定した心をEquanimityというのだな、と思っていました。
聞かれたときは、とりあえず、OKとだけ先生に答えていたのですが、なんとかできているような気がします、程度で、執着心に飲み込まれそうになる時があったりもしました。
それもいいんだなぁとEquanimityについて聞かれるときにどこか感じていた気がします。
あるがままを見る、感じる、認める、という作業をし続けていると、いろいろな出来事を深く感じ、味わい、瞬間をすごく深いところまで感じ、そしてすぐに次の瞬間に集中していて、過去や未来への執着なく深い一歩一歩を踏みしめていくような生き方になっていくのかな、と思ったりもします。
そこでSelf-compassionも必要だな、と。
ただ見た時に、それでいいんだよ、としっかり見据えた末に自身に言ってあげる言葉。
そうすることで生まれる余裕はどんどん次につながっていく気がします。
お互いに日々精進ですね。
読んでいただいている事、コメントを書いてくださることに本当に感謝しています。
ありがとうございます!
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