仕事、といっても、インターンなのですが、31日までは周りのみんなは働いておりましたが、私は30日で切り上げてきました。
うちのボスなんて、絵理は明日くるよね、と30日の日に普通に言っていて、来ないよって言ったら、別に来いっていうわけじゃないけど、そうなんだー、オッケー、俺は来るけどね、なんていって、厳しいことをまったく言わない人で、来いとか、休んじゃだめだとか言わないだけに、あれ、来ないの、と言った自分の発言が自分らしくなかったからか、ほんと、別に来なくてもいいんだよ、来て仕事してもいいし、と何度か若干気まずそうに言っていました。彼らしい。
そんな感じで、さりげなく終わりかけた去年の暮、仕事納めだと感慨深く感じていた時に思い出した話があったのでここで書こうかな、と。
いろいろな患者さんが来る病院でインターンをしていて、セラピーをするよりも、アセスメントばかりをしているのですが、最初のインタビューでまるでセラピーのようになることもたまにあり、この話もちょっとそれっぽい話。
書く前に、私は個人的にはこの段階(アセスメントの段階)でセラピーのように話をしたりはしないです。あくまでも情報集めだし、私がセラピストとしてアサインされているわけでもないし、セラピーという意識で私も行っていないうえ、相手の患者も当然そうは思っていないので、そういうところでセラピー風なことは自然にしないでやっています。
なんとなく、これはクリアにして、本題に入ると。。。
ERからの連絡は全部が既に何かしらの精神障害を患っている人が来た時のコンサルテーションで、ほとんどの患者さんが入院経験があるとか、多くの精神薬を飲んでいる人ばかり。
そんな人が何かのきっかけで調子が悪くなり、死にたい、とか言い出してやってくることが多い。
それか薬をもらいに来るか、寝るところがないから自殺をほのめかして、ホテルのように泊まりにくる患者もいたりします。
この日の患者さんは何度か入院している人。この日は、自殺したくなりそうで、まだ計画は具体的にはあるようでないが、おかしくなりそうだ、と言ってやってきました。
40代後半の男性で、過去に4回もの自殺未遂。未遂というか、生かされてしまった感じで死なずにすんだ人。
1度目は車の走りまくる道路に飛び込んで、内臓とかぐちゃぐちゃになりながらも一命をとりとめる。
その次は薬物のオーバードース。これもコカインだったかなにかで、心臓も止まったそうだ。それも蘇生されて、また一命とりとめる。
3度目はピストルを持って頭を撃ち抜きかけているところを誰かに発見され止められ、助かる。
4度目はロシアンルーレット状態に拳銃を準備して、本当に頭を撃ち抜いてしまい、脳挫傷をおって、瀕死の状態で運ばれたが、これまた一命をとりとめ、今も元気に暮らしている、という状態。
奥さんが亡くなったのが12月ということで、12月になるとそれを思い出したり、過去のつらかったこと(小さいときにお父さんに性的虐待を受けている)などを思い出してしまい、過去の自殺未遂も同じ時期にしている。去年は精神科に入院して過ごしている。
それもきっかけとなり、12月のERにやってきた。
30代後半くらいから薬にはまりだし、薬を売りながら、自分も中毒。子供がいるが、まったく疎遠で、ろくでもない父親だと自分を思っていて、そうなるとさらに鬱がひどくなる、という悪循環を繰り返している人。
私と精神科の研修医と一緒に話を聞きに行った。
基本的に、私は隣で見ているだけで、インタビューは研修医の人がする。
私がするときもあるが、このときは彼がリードして話をしていて、私は聞いているだけ。
一連の話しを聞き、研修医が、「ひとつ言わせてもらうと、あなたはとても自分を責めているんだね。これだけのことを経験して、ちゃんと病院にきてどうにかしようとしているし、ここまで生きているんだから、すごいことなんだよ。」と話し出した。
「自分を責めるのはやめて、自分がちゃんとしていて、素晴らしいモチベーションがあると気が付いてもいいんじゃないか」
と彼は話している。
私は横で聞きながら、素晴らしいことを言っている風だが、私だったら違うことを言うな、とひっかかりながらも、口出しせずに聞いていた。
そして、この患者さんはやはり危険な状態にあるということで、入院することに。
インタビューの後、研修医の人と話をしながら私たちのオフィスに戻っていた時に、研修医の彼曰く、なんだか今日のはよかったな、と。どこか彼(患者さん)の人生に影響するような、彼にとって大事なことがいえた気がする、と言って、研修医の彼はいい気分だった。
私は、その傍ら、私の思っていることがうまく言えず、よかったね、そうだったね、と言うだけ。
研修医の彼に私の考えていることを伝えることが上手にできなくて、そのまま心うやむやな状態で過ごし、なぜか年末の仕事納めの時にこの時のことを思い出して、今だったらどう伝えるかとか考えてしまっていた。
未だにうまく伝えれる気はしないのだけど。
私が思ったのは、この患者さん、自分を責めていることは百も承知で分かっている、ということ。
周りに怒って、親に怒って、自分自身にも怒りがいっぱいで、社会にも怒りがあって、でも、それを自分に向けて、どうすることもできなくなって、というのが彼の現状。
その外に向いた怒り、彼自身の感じている、取り残されたような、社会や家族に裏切られたような悲しさからくる怒りに関しては、こんな彼(ドラッグ中毒で子供もろくに育てられない人)が感じるというだけで社会からはうまく認めてもらえないもの。
だからこそ、彼も自分を責めるということしか残されていなくて、そうせざるを得ない。
そして、その自責の念から自殺未遂を繰り返し、悲しい出来事が続き、抜け出れない感じがして、鬱が酷くなり、また自殺を繰り返す、という悪循環を続けている。
私がこんな彼がもしもセラピーに来たらまずすることは、その怒りへの促し。
いかに彼が怒っているのか、社会がフェアじゃないと感じているのか、親への怒りだったり、今まで出会ってきた人たちで、まともそうだけど、あんたはできるから頑張れ、というようなことを言ってきた人たちへのいらだちと怒りに気づいて、それはいいんだよ、ということを彼自身に知ってもらうということをすると思う。
自分を責めているのはよくわかっている。
それを知ってもらって、慰められて、一瞬だけ気が晴れたような感じがするんだけど、結局同じところに戻ってしまう。
そんなことを繰り返している彼だから、このままだとまた来年の12月にまた同じ自殺願望にさいなまれ、もしかしたら今度は成功してこの世の人ではなくなってしまうかもしれない、というのが私が思ったこと。
こんなに生かされている彼だから、生きて欲しい、とどこか本能的に思うのは自然なことなんだけど、生きるということは、彼がこの怒りに気が付く必要がある、ということでもある気がする。
ここまでいうと私の勝手な理論かもしれないのだけれども、だから彼はこんな瀕死の状態を、多少の障害(脳挫傷のせいで)をおいながらも生きているんだろうな、と思った。
怒りに気が付いて、怒っている自分を許し、悲しんでいる、さみしい自分を知り、許す。
そんな自分自身への最大の愛を自分で送る。
そうすることで、ちょっと逆説的ではあるが、今まで怒っていた人たちを許し、愛することができると私は思っています。
そうすることで、鬱から解放され始める。
これは、私自身が経験して、今も日々感じて生きているからこそ思うことなんですが、怒りなどへの気づきと自身への本気の愛情がいろいろなものを驚くほど変えると信じているからこそ思うこと。
大体、悲しさや寂しさが第一の最初の感情で、怒りはそれらの次に来る二番目の感情だということを誰も知らないことが大きなポイントかもしれません。
そういう意味で、怒りや許せない感情というのは大切なキーだな、と思います。特に鬱傾向にある人は。鬱とは自身に向ける怒り、と心理学会で言われてますから。
そして、そんな自身への許しと愛情を向けることがいろいろな変化を促す、と私は思っています。反対する人がいるかもしれませんが、譲れないほど、強く信じていて、自信を持っている私の直観と技量。
うまく研修医の人に伝えられなかったのが私の未熟さだな、と感じて、今年の抱負の一つとして、こういうことを上手に伝えるということを足そうかな、と思った新年の日々でした。
ますます、2014年が楽しみです。